中島岳志的アジア対談:「葬式仏教」、スピリチュアル、靖国--末木文美士さん



 今回のゲストは、仏教学者の末木文美士・東大教授。オーソドックスな経典の研究だけでなく、一般向きの仏教入門書も書き、「葬式仏教」を擁護するなど、刺激的な問題提起をしてきた。中島岳志さんも、仏教、特に日本の近代仏教とインドとの関係に強い関心がある。議論は、日本人の宗教観から靖国問題にまで広がった。【構成・鈴木英生、写真・馬場理沙】

 ◇仏教がファシズムに流れた--中島さん
 ◇宗教概念を広げる必要ある--末木さん
 中島 現代社会では、宗教の定義があいまいですね。

 末木 日本人は過半数以上が初詣でという大巡礼に参加するのに、「自分は無宗教だ」と言い、宗教と聞くとアブナイものだと考えてしまう。宗教という概念が、日本の実情を適切に表せていないからではないでしょうか。日本は明治以降、欧米の概念をそのまま翻訳して現実に当てはめてきた。だから、自己認識がしにくいのでしょう。

 中島 最近の末木さんの仏教観はどんなものでしょうか?

 末木 日本の仏教は、特に近代以降、知識人向けの思想としての仏教と、社会的な制度化した葬式仏教という二重構造を持ってきました。この二つは別々に見えて、実は合わさって機能していたんじゃないかと考えています。今は宗教扱いされないものも含めた広い意味での宗教が、いろんなかたちで変遷してきました。ところが、いわゆる知識人は、その伝統の積み重ねを必ずしも十分自覚的にとらえてこなかった。

 中島 仏典解釈の世界と、葬式仏教をつなぐ。形而(けいじ)上的な垂直の論理と、水平な庶民の信仰を再構成し直すべきだと。

 末木 垂直と水平の区別が、日本の多神教的土壌ではあいまいなんです。キリスト教なら、「ここからは一気に神の領域だ」となる。しかし、日本には中間的な領域があるんじゃないか。初詣でもお墓参りも、お参りした人がみんな超越的なものに触れるかというと、ちょっと違いますよね。あるいは、かつてなら妖怪とかカッパとか、キツネに化かされるような世界があったわけです。

 そういうものも含めて宗教と見ればいいんです。超越的とは言えないが公共性は超えている、そういう中間レベルを考え直してみたらどうだろうかと。

 中島 現代社会ではキツネの世界がスピリチュアルブームに乗っ取られていますね。このブームは、現世利益的な話に帰結するからなじめないのですが。

 末木 元々、宗教は公共的な合理性で割り切れないのだから、怪しいものが混在していて当然だとは思います。その意味で、スピリチュアルも間違ってはいません。ただ、今のスピリチュアルは、そこを突き抜けてもっと訳の分からないものに行くのではなく、分かるものの世界に回収されてしまっている。

 中島 戦前は、仏教的なスピリチュアリズムと超国家主義が結びつきました。明治時代の僧侶、清沢満之(まんし)は、世俗の倫理から独立した宗教固有の領域を考えた。しかし、これが親鸞の「自然法爾(じねんほうに)」などの解釈を通して、後に究極の現実肯定主義に結びついた。昭和の歌人、三井甲之(こうし)らの親鸞論がそう。理想はあるがままの世界に実現されているから、現実を改革する発想はすべておかしい、と。これが滝川事件など言論弾圧にもつながる。劇作家の倉田百三も、自我の問題から親鸞経由で、日本の大乗的精神をアジアに敷衍(ふえん)すればいいとの論理に行き着いた。

 末木 戦争に向かう中で仏教が果たした役割も、いろいろな線があります。日本の仏教は大体、菩薩(ぼさつ)的に人々を救済する大乗主義ですが、その具体的やり方を指示しない。浄土系ならあるがままになっていきますし、禅でいえば座禅そのものには思想がないから、カトリック禅みたいにキリスト教とも、天皇とも結びつく。日蓮系なら世界変革の論理を導きうる。それぞれ違うのに、全体として戦争に結びついた。それを否定する論理が、非常に出にくかった。

 いろいろな理由がありますが、一つは、仏教が社会構造に組み込まれていたから。宗教学者の山折哲雄さんが分析していますが、島倉千代子さんの「東京だよおっ母(か)さん」の歌詞は、1番が二重橋、2番が九段、3番が浅草。天皇を軸に、靖国神社と寺が結びつく構造をうまく表している。この構造が、戦前はもっと強かったわけです。

 当時は、社会全体が家父長制で、日本国家の家長として天皇が君臨した。家の倫理が直ちに国の倫理に結びつくのが日本ファシズムの特徴です。個別の家の家父長制をシンボル化するのが祖先崇拝であり、位はいと墓を守るのが一番重要な家長の義務。その位はいと墓を押さえているのは仏教。葬式仏教は、社会構造の根っこを支えていた。その社会がファシズムに流れたわけで、仏教がそこから逃れることはあり得なかった。

 中島 だから今、改めて近代日本仏教を振り返るべきでは?

 末木 そこで感じるのが、70年代ごろまでの日本にあった、ある種の思想的な積み重ねですね。70年から80年あたりは、かなり大きい戦後の思想的転換期だった。それまでは、マルクス主義ならマルクス主義なりの蓄積があり、その立場から日本の過去を振り返る努力が継承されてきた。それがこの時期で途切れ、以降は、思想が簡単に着替えられるファッションになってしまった気がします。

 歴史の積み重ねを振り返るのは、単に優れたものを掘り出すためだけでなく、自己認識のためでもあるのです。葬式仏教的にトータルな社会構造の中で生きてきたものに、どういう意味があったのか、位置づけ直す作業も、その意味で必要なのだと思います。

 ◇靖国問題は根本で議論を--末木さん
 ◇形式論に陥った政教分離--中島さん
 中島 それにしても、ここ数年、ようやく日本の近代仏教の問題が議論されるようになりましたね。

 末木 中島さんが関心を持たれているような近代日本仏教とインドとのかかわりなど、従来ほとんど視野の外に置かれてきました。今まで見えていなかったような問題が、最近ようやく議論の場に出てきた。

 それに関連して見直しが必要なのが、靖国神社の問題です。靖国神社についても、イデオロギー的な政治論ではなく、何が宗教かという根本レベルでの議論が必要だと思います。

 日本の宗教概念がおかしくなったのは、戦前、国家神道を宗教の枠から外したことが影響している面があります。それが元になって、靖国神社も政治問題としてしか議論されなくなったのではないでしょうか。

 中島 日本のセキュラリズム(政教分離原則)は、とても奇妙ですね。線香を供えるのは宗教だけど献花は宗教ではないとか、黙とうは宗教ではないが手を合わせると宗教だとか。「政」の概念が、市民社会とか公共圏一般まで含むものに広げられている。「教」も、教団を指すのかスピリチュアリティまでも含めるのかが不明確です。

 インドはセキュラリズムを標ぼうしても、公共空間から宗教を追放しようなんて考えない国です。ガンジーの命日には、ABC順に各宗教の代表を呼んで礼拝させます。そこで首相も与野党のトップも礼拝して帰る。彼らは多宗教の寛容型セキュラリズムと言っています。日本の場合は、いささか硬直化しているのではないかと思います。だから首相の靖国参拝も私人か公人かという……。

 末木 妙なところが焦点化される。そこが問題ではないだろう、と。

 中島 公と私の議論も、宗教も定義より形式論に陥ってしまっている。

 末木 靖国参拝は問題視されても、首相の伊勢神宮参拝は誰も問題にしない。宗教を問うことは、政治の陰に隠れた本質的な問題を考えることです。それが、必要なんです。

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 ◇対談を聞いて
 今、多少なりとも「思想」としての仏教に関心があると自認する人のなかで、自分の家が檀家(だんか)になっている寺とのかかわりから仏教に興味を持った人は、そう多くはないと思う。だが、「思想」としての仏教が、身の回りにある制度としての仏教となだらかにつながっていると分かれば、どうだろう。むしろ、日常を照らし直し、「思想」を日常へと環流する道も、見つかるのではないか。

 末木さんの唱える宗教概念の見直し(あるいは拡大)からは、「思想」と私たちの新しい付き合い方までもが見えてくるかのようだ。【鈴木英生】

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 ■人物略歴

 ◇なかじま・たけし
 北海道大准教授(アジア研究)。1975年生まれ。著書に姜尚中さんとの対談本『日本』(毎日新聞社)など。

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 ■人物略歴

 ◇すえき・ふみひこ
 1949年生まれ。東大大学院博士課程修了。東方学院講師、東大助教授を経て現職。国際日本文化研究センター客員教授も務める。著書に『仏教vs.倫理』『日本仏教の可能性』『鎌倉仏教展開論』など。編著に、ぶんまお著『ボクの哲学モドキ』(全2巻)など。

毎日新聞 2009年1月21日 東京夕刊





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