街とともに『庶民の寺』 清水谷孝尚貫首 焼け野原から再建へ尽力
十五日に迎える浅草寺本堂落慶五十周年。その日を特別の感慨で待つのが浅草寺の住職、清水谷孝尚貫首(かんす)(88)だ。浅草寺入りしたのは終戦翌年の一九四六年。境内は焼け野原だった。「ここに私が来て何になる」。そんな不安な思いから始まって、実現できた本堂再建だった。その貫首の道程とは-。
草創千三百八十年、日本を代表する観音霊場の最高責任者。第二百五十六世天台座主、比叡山延暦寺の半田孝淳師は実兄。素顔はいたって気さくだ。
境内では街の人にあいさつし、気軽に話し合う。根っからの庶民派。「貫首には学者が続いていたので、私には荷が重いです」と謙遜(けんそん)する。
そして、行動派でもある。「もともと動くのが好きなんで」というが、本堂再建の合間に信徒を連れて観音霊場を巡拝した。
実家は、長野県上田市の北向観音で有名な常楽寺。次男として生まれた。
戦況が悪化する中、大正大国文学科を卒業後、トラック諸島へ陸軍小隊長として従軍した。
「食べ物はサツマイモぐらい。栄養失調で倒れた仲間を運んでいた仲間も倒れた」
四六年に復員後、清水谷恭順第二十四世貫首の養子に入り、浅草寺を共同で運営する二十四の支院の一つ、善龍院の住職になった。
本堂もない浅草寺では収入もほとんどない。生活資金を稼ごうと、教員免許があったため、駒込の中学校で国語を二年間教えた。
その後は、勧財を主とする執事として、浅草の各町をはじめ全国各地を訪ね、本堂再建費勧進にまい進した。
「名もなき三人の方が(観音様を)拾われたことが、浅草寺を庶民的なお寺と運命づけた。一心にご宝前で、ご名号を唱えることが大切ですが、観音信仰は難しいことはいわない」
寺とともにある浅草の街については、「若いうちは浅草の街で人生の楽しさを知り、最後は観音の信仰に落ち着いていく。そういう帰着点がここにはある」と柔和な表情で語る。
その懐に聖と俗を抱き続ける浅草。庶民派の貫首が率いる寺は、庶民に愛される寺として、これからも息づく。
しみずたに・こうしょう 一九一九(大正八)年十一月生まれ。四六年九月、浅草寺の支院の一つ、善龍院の住職になる。九六年、浅草寺の第二十七世貫首に就任。全日本仏教会副会長。
(2008年10月09日 東京新聞)


