紀州・社寺を歩く:福巌寺(一願寺田辺市)



紀州・社寺を歩く:福巌寺(一願寺田辺市) 清姫眠る地に別の物語 /和歌山


◇「一度に一つ」地蔵尊へ願いを込め


 日本人なら誰でも知っている「安珍清姫物語」。安珍清姫と言えば道成寺だが、火を吐く大蛇と化した清姫が、鐘に隠れた安珍を7巻半して焼き殺したのが道成寺なら、今回お訪ねする福巌(ふくがん)寺は清姫の霊を弔う菩提(ぼだい)寺。こちらに伝わる物語は、ストーリーも若干違うようなのだ。

 熊野古道の中辺路ルートに沿って国道311号を走る。中辺路町真砂(まなご)地区まで来ると、富田川べりにドライブイン「清姫茶屋」。近くに清姫堂、薬師堂という二つのお堂にはさまれるようにして清姫の墓があった。この真砂地区が清姫生誕地という。ここから県道にそれ、2キロほど山道を上がった西谷地区に福巌寺は建つ。ただし、途中の標識は、福巌寺ではなく「一願寺」だったのだが、その理由は後ほど。

 寺伝によると、江戸時代初め、現在地の近くに福徳庵、真砂地区には萬福禅寺という二つの寺があった。ところが、いつの日か萬福禅寺は大水害により流失、寛文2(1662)年、再建できなかった萬福禅寺と福徳庵が合併、寺名を福巌寺として再スタートしたという。

 「真砂の萬福禅寺が清姫一族の菩提寺だったのですね。今、墓のそばに建つ薬師堂だけが流失を免れたのですが、そこに清姫の父・藤原左衛門之尉清重の位牌(いはい)が残っていましたから」と、おっしゃるのは能城(のぎ)宗堅住職。

 従って、遠く離れていても、清姫の墓がある場所は福巌寺の境外地。さらに言えば、30年ほど前までは墓も薬師堂ももっと北にあり、国道工事で今の場所に移築されたそうだ。ところで、お墓の案内板では、清姫は蛇になって後を追ったりせず、富田川に身を投げて死んだとありました。

 「安珍清姫の話にはいくつもバリエーションがあるんですわ。もともと人妻だったり、男好きな後家だったり……。ここでは、清姫は父の清重と白蛇の化身との間に生まれた清純な娘ということになっています」

 「もし、大蛇になって追いかけたとすれば、それは清姫そのものではなく、亡くなった後、浮かばれなかった怨念(おんねん)、というのが地元の解釈で……。道成寺さんの方では、嫉妬(しっと)深い悪女扱いですから、こちらではあまり心良く思っていないのですわ」(笑)

 ご住職は長さ18メートルの絵巻を本堂に広げて、面白い話をもっとしてくださったのだが、続きを聞きたい方はぜひお寺へ。現在、福巌寺へお参りに来る方の大半は、清姫より寺にある一願地蔵尊(からし地蔵)がお目当てなのだそうで、そちらの話も聞かなければ……。

 福巌寺六世の道機和尚は徳の高い住職だったが、文政6(1823)年に亡くなる際、「死後、地蔵尊を刻し人通りの多い場所に祭ってほしい。そうすれば、一度に一つの願いは必ずかなえてやろう」と遺言された。一つの願い限定なので一願地蔵尊。里人は熊野参拝の当時のメーンストリートだった汐見峠にお地蔵さんを安置、和尚が好きだった酒とからし(タカノツメ)をお供えしてきたそうだ。

 昭和34(1959)年、今では人通りの減った汐見峠から境内に移したのが能城住職。すると、あれよ、あれよと言う間に評判になり、休日などは観光バスがやってくるまでに。道路標識が福巌寺でなく一願寺なのは、通称名の方が有名になってしまったからという。

 屋根もあり、休憩施設も整った一願地蔵さんの前へ。なるほど、足元には清酒にタカノツメを結んだ供物が並んでいる。願いをかなえてもらった人たちの「一願成就」の御礼絵馬には、合格御礼から結婚、病気回復、なんでもあった。

 私もお願いを、と思ったのだが、あれもこれも浮かんで一つに絞れない。「人間の欲は限りないものですが、一つずつ進めという教えです」と、ご住職。いや、お恥ずかしい。
(次回は29日)<文と写真、編集委員・池谷洋二>

毎日新聞 2008年4月22日 地方版





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