多磨霊園 公園墓地周辺で春を感じる散策
多磨霊園 公園墓地周辺で春を感じる散策 首都近郊の歴史を伝えるスポットも
新宿から京王線で特急電車と各駅停車を乗り継いで約25分。日本で初めての公園墓地として知られる多磨霊園(東京・府中市)の最寄駅周辺は、昔ながらの商店街や閑静な住宅街の中に、首都近郊が発展してきた歴史を今に伝えるスポットが点在する。ようやく春めいてきた週末の一日、梅に続いて桜の花もほころび始めた多磨霊園周辺の散策を楽しんだ。
20年前と変わらぬ風景の駅前商店街 住宅街で咲き誇る梅の花
20年前とほとんど変わらない多磨霊園駅前の風景
住宅街の庭に咲いていた梅の花 新宿方面へ向かう上りホーム側にしか改札口がない多磨霊園駅を出ると、駅前には2台のタクシーが並んでいた。
タクシー乗り場の横には、多摩川競艇場へ行くバスの標識も立っていたが、かなり錆びていて文字もかすれ気味だったので、今でもバスは走っているんだろうかと心配になってしまう。
もう20年以上も前になるが、新婚当時、駅から歩いて5分ほどの貸家に1年半ほど住んでいたのだけれども、その頃と駅前の様子はほとんど変わっていない。
駅の新宿寄りにある踏切を渡って、以前住んでいた場所に行ってみたら、借りていた平屋の貸家は姿を消して、大きな家に変わっていた。門にかかっている表札を見たら、記憶に残っていた大家さんの名前で、昔、大家さんの家だった場所にはアパートが2棟並んでいる。私たちが借りていた家の裏にあった立派な庭は、ほぼそのままだったから、その庭を生かして新しい家を建てることにしたのだろう。
娘が小さかった頃の散歩コースだった東郷寺にも寄ってみようと、住宅街の中を駅まで引き返し、駅前の道を南に向かって歩き出す。何軒かの家の庭で、梅の木が見事な花を開いていて、思わずカメラを向けて写真を撮らせてもらった。
東郷寺通りという名前の道路をあるいていくと、ビルの前にスヌーピーや白雪姫の七人の小人たちをかたどった石造りの人形が置いてある。ビルの1階が一杯飲み屋さんになっていたから、客寄せ用のディスプレイなのかもしれない。
見事な山門の寺は東郷元帥が開基 映画「羅生門」のモデルという逸話も
東郷寺通りに面するビルの前にあった石造りの像
映画「羅生門」のモデルにもなった東郷寺の山門 通りが緩やかに湾曲しながら下り坂になると、右手に昔と同じままの東郷寺の山門が見えてくる。
東郷寺通りから山門へ通じる小道を歩き、山門の階段にたどり着いたら、「檀信徒各位」と書かれた木札が立っていた。なんだろうと思って読むと、「この階段(斜度四十度位)は急ですので、心臓の弱い方、体調の勝(すぐ)れぬ方は左手の坂道をご利用ください」と書いてある。こんな注意を書くなんて、階段の途中で倒れた人もいるのかしら、などと思いながら階段を上っていくと、確かに急な階段だった。
山門をくぐって境内に入ろうとしたら、今度は「山門見物の方へ」という白いプレートが置いてあって、「この先、境内墓地ですので関係者以外の立入は御遠慮ください」と書かれている。
それでも、ちょうど、住職の方がお参りにきた信徒を見送るところだったので、「お寺の縁起が分かるような資料をいただきたいのですが」と声をかけさせてもらうと、本堂まで案内してくれて、「聖将山東郷寺略縁起」という紙をくださった。
縁起によると、現在、お寺になっている土地は1913年(大正2年)に東郷元帥自らが隠棲(いんせい)の地として購入したもので、元帥の没後、東郷家から寄進された5,000坪と隣接する土地が東郷寺の境内地と定められたのだそうだ。
東郷元帥は1934年(昭和9年)に88歳で永眠し、日蓮宗の法儀により密葬を済ませた後、6月5日に国葬の礼に送られて多磨墓地に埋葬されている。その2年後の1936年(昭和11年)に「東郷寺建設会」を設立、京王電鉄本社に本部がおかれて、1939年(昭和14年)に東郷元帥を開基とし、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院が誕生したという。
住職の方によると、東郷寺の立派な山門は、黒沢明監督の映画「羅生門」のモデルにもなったもので、当初、黒沢監督は現地でロケを行う予定だったが、もう少し朽ち果てた雰囲気を演出したいということで、スタジオ内に東郷寺の山門を模してセットを作ったのだそうだ。
お寺を出る時には、住職の方から「また、散歩にきてください」と声をかけていただき、急な階段を転げ落ちないよう気をつけながら斜めに降りた。
1889年に誕生した村の役場跡 古い歴史を物語る染屋不動尊
この場所に多磨村役場があったことを伝える石碑
旧甲州街道に面している染屋不動尊 東郷寺を出た私は、ちょっと距離はあるのだが、再び、京王線の踏切を渡って、多摩霊園まで向かうことにした。
踏切と前後して多摩霊園駅の駅前商店街のようになっている東郷寺通りを道なりに歩いていけば、旧甲州街道と交わる交差点から先が多摩霊園南参道となるはずだ。
駅前商店街のお店も、20年前とほとんど変わっていないのを確認しながら、歩いていくと、道路の右手に「多磨村役場跡」という石碑が建てられていた。
現在は地域の文化センターなどの施設がある敷地の片隅に建つ石碑によると、1889年(明治22年)に周辺8つの集落が合併して多磨村となり、1954年(昭和29年)に府中町と多磨村と西府村の1町2村が合併して府中市が誕生したという。新市の発足に伴い、多磨村役場が府中市役所東部出張所に変わり、現在は、府中市立白糸台文化センターとなっていることが説明されていた。
旧甲州街道と交わる交差点の手前左角には、染屋不動尊と書かれた小さな社があったので、寄ってみることにした。
隣に建っているアパートとの境界もはっきりしないような狭い境内だったが、不動尊の名称でもある染谷という地名は、江戸時代初めの17世紀の検知帳でも登場するものだという。
境内に置かれていた説明版によると、上染谷(かみぞめや)の集落はもともと多摩川のほとりにあったものの、度重なる洪水を避けて、現在の甲州街道沿いに移ってきたのだそうだ。地名の起源も、調布を染めたところとか、鎌倉時代に染殿のあったところともいわれ、南北朝時代の資料にも染屋の表記が確認されるというから、その歴史が古いものであることは確からしい。
社の前には、「(ゆ)ゆたかな姿のあみださま」という“武蔵府中郷土かるためぐり”の碑も立っていた。
大正時代に造成された大規模墓地 元帥海軍大将の墓が並ぶ名誉霊域
日本で最初の公園墓地・多磨霊園の正門
東郷平八郎元帥の墓と並んでいた山本五十六元帥の墓 旧甲州街道の横断歩道を渡って、多摩霊園南参道に入ると、道の両側に桜並木が続いている。まだ、季節が早いので、桜の花は咲いていなかったが、満開のシーズンになったら、見事な桜のトンネルを形づくるのだろう。
多磨霊園南参道を15分ちょっと歩いて、多摩霊園正門にたどり着いた。正門に至るまでの道路には、老舗の風格を漂わせる石材屋さんなどが軒を連ねている。
正門の手前右手にある交番の前には、さきほど染屋不動尊で見たのと同じ“武蔵府中郷土かるためぐり”の碑があり、今度は「(れ)歴史が眠る公園墓地」と書かれていた。
思わず「料金はどこで払えばいいのかしら」と入場券売り場を探してしまいそうな立派な正門を抜けて、墓地の中に入ると、大きなロータリーになっていて、文字通り、四方八方に道路が延びている。
多磨霊園は良く知られているように、日本で初めての公園的風景を取り入れた大規模な墓地として、1923年(大正12年)4月に開設された公園墓地だ。
すでに東京の人口が急増し始めていた当時、市内の墓地不足が進行してきたことから、1919年(大正8年)に計画が立てられ、4年の歳月をかけて造成されたという。
当初は「多磨墓地」という名称だったが、1935年(昭和10年)に「多磨霊園」に改称されて現在に至っており、1993年(平成5年)には用地不足の大都市における新しい墓地形式としての「みたま堂」(新納骨堂)が建設され、2003年(平成15年)には合葬式墓地も完成している。
霊園の中を歩いていると、家族連れが犬を散歩させていたり、ジョギングをしている人もいたりして、お墓がなければ、まさに、公園そのものという感じだ。
正門からまっすぐに伸びている広い道路は、名誉霊域通りと呼ばれており、中央部にそびえる塔の手前には、東郷寺の開基である「元帥海軍大将」の東郷平八郎の墓があり、その隣には、同じく「元帥海軍大将」の山本五十六の墓も並んでいた。
広い霊園内を歩いているうちに、カアカアとカラスの鳴く声が響き、お馴染みの「家路」の音楽も聞こえてくる。正門の方に向かうと、ちょうど「多磨霊園駅」行きのバスが来たので、そのまま、バスに乗って、家路につくことにした。


